ちょっと特別な人と出来た縁や繋がりを、SNSへ、友達へ、見ず知らずのファンへこぼす人間をまだ学生の頃から見る度ずーっと冷めた気持ちで軽蔑して、私はそうはならないぞ、それはもう徹底するつもりで8年、意味があるのかないのか、あんな人間きっと損をする、いつか痛い目見る、罰が当たる、不幸になる、そんな風に言い聞かせて信じてきた時もあったけれど、この気持ち届いてなきゃ意味ないじゃん、死んだらそのまま消えちゃうじゃん、それであほらしー。あほらしくなった。

私のプロ意識ってなんだ?
やらなかったことなんて、全然幸福への切符じゃなかった。
まぁそんなの、当然なんだけど。

ちょうど10年前から、正直に気持ちを言葉にするようになった。消えるような場所じゃなくて、表に出しとこう。それは前進のような気もしたし、何かが起こりそうな予感やわくわくがあった。どこかにこの言葉が届く予感があったから。私が私を好きなところ。言葉を見て、絵を見て、経歴を見て、生活を見れば、全部がちゃんと正直に繋がってるところ。言葉だけで食べていくような才能はないけど、絵だけで満足させるような力はないけど、頭悪いけど、自堕落だけど、裏表なく正直で信頼できる。我ながら自分をそんな風に思う。言葉にしたことが嘘なく絵に表れて、性格もよく分かる。そういうところ、いいじゃん。自分に思う。

私がまだ高校生だった頃にあったMEMORIZEという日記サービスに自分の心の内を書き連ねていた時、引きこもりの男の人から一回だけあったコメント、今でも覚えてるなぁ。2行くらいの感想にあった、終わりの一文。
「言葉とかもかっこいい」
この言葉が人生で褒められた言葉の中で一番好きかも知れない。共感じゃなく、納得じゃなく、「かっこいい」って、いいなぁ。20年も前に残されたコメントがずっと心の中にある。あれ、嬉しかったって。今でもモチベーションの一つになっているかも知れない。誰だか分からないけど、ありがとう。

自慢して一瞬気持ちよくなっちゃうより、やっぱりこういうのがいいよ。20年、ずっと噛んでて味が出る言葉が返ってきた方が、私は私らしくいられる。きっと誰も不幸になんかなってない。罰なんて当たるどころか、本人の中で逆にいい思い出になっちゃってるよ。そうに決まってるわ、私もそう思ってるけど。やらなかったこと、どういうところにプライドを持って生きてきたのか、見ていられるのは結局自分だけで、誰にも理解されない取り扱いの難しい問題にしておくのは勿体ない。理解されにくくても、誇り高くあれ、自分。鼓舞して気持ちを言葉にする。心の中をちゃんと人に伝える。誰かに届くと信じ続ける。