何を隠そう、私はコレクターである。
今はぬいぐるみを病的に集めている。あと実は言ってないのだけども、ENESCOのオルゴールも集めているし、RUSS社のテディベアの人形も集めているし、独特な形をしたヴィンテージっぽいアクセサリーも集めている。

36歳、気付いたらいつの間にかコレクターになっていた。
しかし昔からコレクション気質だった私たち家族は、お土産屋さんによく置いてある紙製の起き上がりこぼし、文房具のキャップの上についている消しゴムなどを集めていて、それらに対する親の寛容さもあった。
インターネットのない時代に比較的オーソドックスな楽しみだったのかも知れない。

私はコレクター仲間というものを持ったことがないので他のコレクターがどうなのかは分からないが、コレクションというのは「お金で何とかすればいいものでもない」と思っている。
お金を出せばこのご時世、ヤフオク等でコレクション品を相当なスピードで集めることが可能だ。でもそれは私としては本意ではない。
コレクションというのは、そのものの価値を知らない人間から譲り受けてこそ、私の手の中で光り輝くと思っている。
そういう手に入れ方をする時、大抵の場合はコレクターにしてみれば激安価格だ。その人にとってはそれくらいの価値で、価値が分かるものからすれば数万円。それこそ、コレクターが求めるコレクションだ。
要するに、コレクター同士でバチバチと戦って手に入れたくはない。

一番くじで例えるとする。
わ~あのくじのあれ欲しいな~と思った時に「全部買えばいいじゃん」と言われたら。学生の頃なら、親に言われればいやこの親は神か?と思っただろうけれど。
でも大人な私は思う。いやそうじゃない。それはコミュニケーションの放棄だ。
全部買ったとして、いらないものは雑に売る?でもそれラッキーじゃなくない?
コレクション、置ける場所には限りがある。過去に欲しかったもの、要らなくなったものはないか?これを手に入れず、未来に後悔はないか?

何も自分と同じように欲しがって喜んで欲しいわけじゃない。ただ、大人となれば、お金の使い方も当然考える。お金と、欲しいという気持ち、置ける場所、手持ちのコレクションとのバランス…。全て考えた上で、何枚引くのか、残り何枚なら全部引くのか、考えてこそ大人のコミュニケーションではないか。
私はそう思う。

よく耳にする「お父さんのコレクション品全部いない内に売ったったわ」というエピソード、聞く度に私はなんて可哀想なんだと思う。家庭を持つことでそんな仕打ちを受けるなんて。働いてるのに、どうしてそんなことをするのか意味が分からない。じゃあ結婚しなければいいのに…。とは言え、コレクション品に寛容でない人の存在ももちろん分かる。だって尋常じゃないくらいスペースを取るから。なんなら日常生活に支障をきたすし、一時期は姉が友人に「妹は何かの病気ではないか」と相談していたこともある。残念ながらとても健康的な心で異常にコレクションをしている。姉にとっては悲報だろう。治しようがないのだから。しかし最近ではコレクション品を厳選している。波形の頂点は脱したらしい。

最近読んでいる田辺聖子さんという作家さんが、どうやらコレクターらしい。お気に入りのぬいぐるみという描写を読んだ時、即行でネット検索をした。お部屋の感じ、集めているもの、似ている…。親近感を抱いた。
私がオタク趣味に全く興味がないのに(2次元とか)オタク自身の趣味に興味津々なのは、私のこの気持ちを理解してくれるのはオタクくらいなもんだろうという思いがあるからでもある。
田辺聖子さんはエッセイの中でこんな風におっしゃっている。
「この世の中でどれほど楽しみをみつけ得るかということが、女のかしこさの度合いだ」と。
ヨッ!と心の中で大声を出して手を叩く。そうだそうだ。言ってやれ。

誰も気付いていない価値あるものに出会った時、私はゴリラのようになる。要するに息遣いがウホウホしてしまう。心の中では胸板をどかどか叩いている。こういう脳汁の出方って、日常生活では味わえない。ギャンブルと同じ?勘弁してくれ。と言いたいところだが強く否定出来ない。ま、味わいたい感覚としては、同じなのかも…。

ちなみにコレクターとして言いたいのは、死後はどんなに面倒くさくても同じコレクターの元へ届くようにしてくれということである。当然、お棺に入れて燃すなんてもってのほか。面倒くさかったらまとめてでいいから、欲しいと思う人の元へ、適正価格で渡って欲しい。価値の分からない人を経由してしまうと、雑に消えゆくコレクション品もあるかも知れないからね。
それだけは、すでに姉にも伝えてある。それで手に入ったお金は、手間賃として受け取ってくれい。